玉名市石貫にある【日本最後の仇討ちの地】。
すごい名前が付いているということで興味本位でその場所を見てきました。
すごく分かりにくい入り口から入っていくと森の奥に続く道が出てきます。
この道を少し歩くと石碑が見えてきます。
この【日本最後の仇討ちの地】にあったのはこの石碑と説明文のみ。石碑にはしっかりと「日本最後仇討之地」と記載されています。
もう少し色々とあるのかと思ったのですが周りは森ばかりで特になにもないです。
唯一石碑の他にあったのがこの「太刀洗の池」と書かれた看板です。
その奥には池らしきものがうっすらと見えたのですが草木が茂りまくっていてしっかりと見ることはできませんでした。
足元も草で見えないので近づくのは危険と思います。
とりあえずこの場所がなぜこのような名で呼ばれているのか全容を解いていきたいと思います!
この場所がなぜ【日本最後の仇討ちの地】と呼ばれているのか?
その内容は説明文にこう記載されていました。
文久元年(1861年)四月六日、江戸細川藩邸で入佐唯右衛門が、下田平八、中津喜平の二人を殺し、逐電した。
残された平八の妻田鶴(たづ)、喜平の妻寿の(じゅの)の両家では、苦しい生活に追われながら仇討ちを誓い、再び家名を立てんと遺児らには文武に励ませた。
十年後、入佐唯右衛門が山口藩に捕えられ、熊本藩に送られることが分った。
田鶴(たづ)や寿の(じゅの)、平八の遺児らは護送の役人に頼んで、ここの宇津呂儀木谷に連れ込んでもらい本懐を遂げた。
時に明治四年四月十六日(1871年)、二年後の明治六年二月七日に太政官布告で仇討ち禁止令が公布されたので、こらが日本最後の仇討ちとなった。
このままではよく分からない人も多いことでしょう。私も現地で読んだ時はいまいち意味が分からなかったのでしっかりと調べたうえで簡単にまとめてみました!
ここからが私が簡単にまとめた日本最後の仇討ちの全容です!
1861年4月6日、元々同僚だった入佐唯右衛門と下田平八、中津喜平はなにかのきっかけで口論になってしまう。そのはずみで入佐唯右衛門は下田平八と中津喜平を殺して逃げてしまいます。
残された下田平八の妻田鶴(たづ)と中津喜平の妻寿の(じゅの)はその後貧しい生活を強いられながらも仇討ちの機会を伺っていました。子供たちにも剣の稽古をしっかりと積ませ、いつの日か仇討ちをしようと考えていたのです。
そして歳月は流れ二人が殺されてから10年後、山口で入佐唯右衛門が捕まり熊本に送られるという話が田鶴(たづ)と寿の(じゅの)の耳に入った。
1871年4月16日、田鶴(たづ)と寿の(じゅの)は護送の役人に頼み込んでこの【日本最後の仇討ちの地】に入佐唯右衛門を連れてきてもらい長年の願いの仇討ちを遂げた。この時にその場にいたのは田鶴(たづ)と田鶴の子の恒平、寿の(じゅの)、そして更に助太刀として平八の弟の島津真八がいました。
それから約2年後の1873年2月7日に太政官(この当時の最高行政官庁)布告(法律のこと)により仇討ち禁止令が公布された。
これにより、これが日本最後の仇討ちとなったのだ。
どうでしょうか?田鶴と寿のは夫を殺された挙句、土地なども取り上げられ貧しい生活を強いられたのです。
仇討ちが成った時、それはそれは嬉しかったことでしょう!
そしてこの話には続きが少しあります。この入佐唯右衛門の遺体がどうなったかと言うと、この場所のすぐ近くにある広福寺で供養されたとのこと。
せっかくなのでお寺にも行ってみることにしました。
【日本最後の仇討ちの地】から車で5分ほど行ったところに入佐唯右衛門が供養されたという広福寺はありました。
広い駐車場に車を停めて趣のある石段を登っていくと・・
すごく立派で歴史のありそうな門が出てきます!
しかし供養塔らしきものが見当たりません。このお寺の人に聞くと、お寺の裏手に供養塔はあるとのこと。
案内してもらいお寺の裏に回ると・・・
こんな森の中みたいなところに出ます。そしてこの奥の方にちょこんと見えているものが供養塔です。
供養「塔」というくらいだから結構大き目のものを想像していましたが意外とこじんまりとしていました。
まぁ確かに悪いことしたやつですから、そんなにでかでかと祀ってあるわけないですよね。
ちなみに、ここで供養されたあと入佐唯右衛門の遺体は熊本に引き取られたそう。
さて、どうだったでしょうか。軽い気持ちで【日本最後の仇討ちの地】を訪れてみたらそこにはこんな物語があったなんて!
現地に行っても石碑があるだけで特に面白いことはありませんが、こうやって歴史を知るのも熊本の楽しみ方の一つですね。